「二月十四日のデリバリーピザ」
                                          桑島由一



 僕は小説家。ほとんど家の外に出ない。頭の中で外の風景を考える。
 キーボードを打って、会話を作る。楽しい会話、悲しい会話、あらゆる会話。
 全ては一人の作業。たった一部屋の世界。パソコンとアスピリン。
 今日はバレンタイン。外に出る予定はない。チョコレートを貰う予定はない。
 この前の日曜日、サザエさんでカツオがまた「チョコたくさん貰える」と言っていて貰えなかった。
昔、家族と一緒に住んでいた頃、バレンタインのサザエさんが苦痛だった。 僕はモテないから、
見ているのが苦しかった。できれば逃げ出したかったけれど、家族でサザエさんを見るのは決まりだった。
ほどけかけた家族の絆を取り持つ、最後の、ささやかな儀式のようなものだった。
「お前はチョコ、もらえるのか?」
 父親が言う。僕はなんて答えていいかわからない。
「大丈夫よ、お母さんがあげるから」
 母親が言う。僕は恥ずかしいのと情けないので、米を喉につまらせた。
 一人暮らしをするようになってからは、一人でピザを食べながらサザエさんを見る。
「カツオ、お前は今年もチョコは貰えないよ。貰えても義理だ。本命は花沢さんだ。
お前の好きなかわいい子、名前は忘れたけど、あの子からは貰えないよ」
 僕は言う。義理さえ貰えない、僕が言う。

 僕はピザが好きだ。うちの近くにはチェーン店ではないデリバリーのピザ屋があって、
とても美味しいので頻繁に頼んでいる。電話すると四十分ほどしていつも同じ男がやってくる。
少し痩せた、無精ひげを顔にまぶした男だ。
「毎度ありがとうございます」
「どうも」
 僕らはその会話を何度も何度も繰り返した。
 マルゲリータ。ピザの端をかじると、溶けたチーズがずるっと口の中に吸い込まれる。焼きたての
生地がふかふかで、しっとりで、口の中でチーズと絡んでたまらない。

 二月十四日。バレンタイン。僕は朝から原稿を書いていた。どこにも出かけない。
 どこにも出かけないのだから、ということを自分自身に対しての理由に、言い訳にしようとしていたのかも知れない。
夜になる、もちろん僕はチョコレートをひとつも貰えないでいた。これは僕が原因じゃないんだ。
外に出て行かなかったのが原因だ。もし外に出ていれば、きっと誰かがチョコレートをくれたに違いない。
 そんなことを考えながら、少し悲しくなった。
 お腹が空いているせいだ、と僕は思った。いつものピザ屋に電話をする。
「もしもし」
 若い女性が電話に出る。いつものことだ。電話は女性、配達は男性。
 彼女は僕の声を聞いただけで、すぐに僕だとわかった。常連だからだ。
「マルゲリータのハーフサイズとサラダですね?」
「はい」
 いつもと同じ注文。電話を切る。なにも変わらない日常。
 四十分が過ぎる。ピザはまだこない。いつもと少し違う日常。
 四十五分。チャイムが鳴る。タバコを灰皿でもみ消し、ゆっくりと立ち上がる。
 ドアを開けると、いつもの男ではない、背の低い女の子がいた。
 彼女の吐く息が白い。いつもと違う日常。
「お待たせしました」
 その声は、電話の声だった。初めて見る彼女は、とても美しかった。
「マルゲリータと、サラダです」
 彼女はデリバリーボックスの中からピザとサラダを取り出し、僕からお金を受け取った。
デリバリーボックスの中には、頼んだ品物以外に小さな箱があった。
 まさか、と思ったけど僕は頭の中で考えを打ち消した。そんなわけない。
「ありがとうございました」
 彼女はそう言って、ドアを閉めた。箱は取り出されることはなかった。
 やっぱりだ。淡い期待を持たなくてよかった。僕はいつだって一人なんだ。閉ざされた世界で、
完結した人間なんだ。
 しかし、チャイムが再び鳴る。ドアを開けると、彼女が泣きそうな顔で立っていた。
「あの」
 と、彼女は言った。
「あたし。勇気がなくて。それで。でも、どうしても、チョコを渡したくて。それで、こんなことを……」
 彼女はデリバリーボックスから例の箱を取り出す。
「ごめんなさい。お客様なのに迷惑をかけてしまって」
 僕はなんて言ったらいいのかわからない。
「でも、あなたはいつも注文をくれるし、だから、わかってくれるかなって思って」
 僕の日常が音を立てて崩れていく。
「これ、チョコレートです」
 箱はカラフルな包装紙でラッピングされていた。リボンには小さなメッセージカードが挟まれている。
 僕は彼女からそれを受け取る。
「それ、どうしても渡したくて。でも渡せなくて。だから、その……」
 彼女は深呼吸をしてから言った。
「いつも、ここに配達にくる、男の人いますよね? 野崎さんて言うんですけど。あの人に渡してもらえませんか? 
次に注文した時、配達にきた時でいいんで。本当はあたしが直接渡すべきなんですけど、勇気がなくて。
今日、野崎さん休みだったんです。他に配達する人はいるんですけど、どうしても、これを、あなたに
預けておきたくて、それで、あたし、こうしてやってきました。よろしくお願いします。すみません、ご迷惑をおかけします」
 僕は黙ったままドアを閉める。とりあえずチョコを窓から全力でブン投げて、お酒を飲んで眠った。
 音を立てて崩れた日常が、いそいそとその欠片を集めて合体してた。




                                              (C)Yoshikazu Kuwashima 2007.02.14.